2015年7月26日日曜日

時そば 柳家小さん


「時そば」 柳家小さん

・・・私が小学生の時、父親の影響で落語が好きでよく聞いていました。

小学生の頃、私が住んでいた田舎の街にも寄席がやってきました。

確か、学校から落語を聴きに言ったと思います。その時の思い出のひとつが柳家小さん師匠の時そばです。私の好きな落語のひとつでワクワクしたのを覚えています。

これです。



「時そば」「粗忽長屋」「長屋の花見」など、当時の小学生の割にはませていたと思います。

https://youtu.be/-yjLRTRsMPI

2015年7月20日月曜日

日本の武術とは・・・


 メディアがここまで祖国を侮辱するなら、必ず影で動く集団は存在する。
程ほどにすることをお薦めする。日本人なら戦争の酷さを身に染みて判っているから戦争を肯定する者など、余程の阿呆出ない限りいないだろう。
現政権も、戦争をしようといっているわけではない。真逆である。無益な争いをしないために手段を講じている。

 武術がまさにそうである。
術という日本語は実に深い意味を持っている。武術、忍術、技術など、聞こえはいろいろなイメージを彷彿とさせるが、術はすべてにおいて理に適った教えだ。
鍛錬とか修行とも異なる。
術は身に着けると、争いすら避けて通る知恵ともなる。
身を守るには、無益な争いをサラリと避ける知恵も必要と言うこと。
術を身につけるには、筋力は必要ない。
素手で人を倒す術には競技性はない。
しかし、ルールのある競技の中では、筋力や体格は必要となるだろう。


 武術は、非力な者が生きて行く上で大難を無難に通る知恵でもある。
日本には昔から、小さな者でも充分に働ける為の要領を、各分野で教えとして受け継いできた。
それは、武士の世界も、職人の世界も同じなのである。

 各分野で、術を身につけるには、師匠や親方に認められる必要があった。
修行は、師匠や親方が術を授けるに相応しいかどうかを見極める為のものだった。
術自体、それ自体は身につける為の理解力はさほど重要ではない。
必要とされる体験を積んでくると、すんなりと吸収できる。
なるほどそうだったかと容易に納得できるものである。
だから、武術を教わると巷の喧嘩などでは使えない。
かえって、どうしていいのかわからなくなる。
しかし、戦には有益となる。
正に、百姓の爺がヨーダと化す。





 要は、その次元に至らなければ会得できないと言うこと。
さすれば、血の滲む修行は其処を理解できるようになるための過程であると理解できよう。

 明治以降、日本はある一部の術を封印してきた。
武士の存在を否定した時代から、ごく一部にだけ伝承されており、武術は表舞台には決して出なくなった。
スポーツとしての競技性とは全く異なる武術や忍術などは、恐らく表舞台には決して出現しないだろう。しかし、ごく一部では伝承されている。
 格闘技はルールがあるから成立する競技だが、空手にしても柔にしても、本来の術からは程遠い内容となっている。生き残るための術を禁じ手とした格闘技に何の意味があるのか。
其処にあるのは、スポーツと言う競技でしかない。
 決してそれを否定するわけではないが、それがすべてではない。
戦は、競技ではない。ましてやスポーツではない。
賛成も反対もない。
まずは、「愛する人を守る術」それには術(知恵)が必要だろう。